[日本のニットの歴史]

  南蛮渡来のニット
   ニットがいつ頃、誰の手によって日本に伝えられたか詳しい資料は残されていないが、少なくとも織田・豊臣時代(1576〜95年)にわが国に渡来した西欧人が手編の靴下を着用していたであろうことは、当時の風俗画をみても想像できる。わが国に西欧人が渡来したのは、1543年(天文12年)ポルトガル船が種子島に漂着したのが最初であり、この時鉄砲2挺を買い入れたのは有名な話である。この鉄砲を見本にして1年後には国産の鉄砲が誕生するが、その 300余年後、同じく鉄砲鍛冶の手によってわが国最初の編み機が作られることになるのも、奇しき因縁といえるかも知れない。続いて、48年にはポルトガル船が豊後(大分)を始め九州諸港に入港して貿易を行っている。更に49年には宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に着き、50年の暮れか51年の正月頃には堺や京都を訪問し、この後、宣教師フロイスが日本に来て、69年には織田信長と対面し、贈り物を献上した。また、大村・有馬・大友の三大名がヨーロッパに派遣した少年使節団が帰朝している。こうして、南蛮貿易時代が訪れ、その時代にメリヤスという言葉が生まれたが、これはポルトガル語のメイアスまたはスペイン語のメディアスが訛ったものであり、メイアスもメディアスも何れも靴下のことを意味している。つまり、当時のニットの主力製品は靴下であったということである。南蛮貿易時代は、島原の乱の後2年経った1639年に鎖国令が敷かれるまで続いたが、後半においてウィリアム・リーが開発したニット機械による製品もおそらく持ち込まれたものと思われる。
  水戸光圀の靴下
   ついで徳川時代に入ると資料もかなり残っており、中でも興味深いのは水戸光圀(1628〜1700年)の遺品である7足の靴下である。これらは1960年(昭和35年)に常陸太田の瑞竜寺という水戸家の菩提寺から発見された。うち3足が絹製の茶色、ベージュ、ウグイス色また4足が綿製で無地の未晒しとなっており、現在の編立技術では作れない精巧な靴下として珍しがられている。何れも海外製であり、長崎が開港された1571年から鎖国令の1639年の間に入荷したもの、また家光が与えた可能性が強いので、その場合は1632年以降ということになる。尚、このうち1足はひどく傷んでいて、何度も履き、洗濯をした形跡がある。傷んだ靴下まで大切に保存したということは、水戸光圀が生前に愛用し、履き続けたという思い出を大切にしたものと思われる。光圀生存中の延宝年間(1673〜81年、徳川家綱時代)には、早くも長崎でも手編み靴下が作られ、土産として江戸に運ばれたと言われており、自悦著の「洛陽集」の中に、唐人の古里寒くめりやすの足袋(眠松) という句がある。更に元禄3年(1690年)には、有名な「俳諧七部集・猿蓑」の中で、かきなぐる 墨絵おかしく 秋暮れて(史邦) はき心地よき めりやすの足袋(凡兆)と読まれている。また、元禄時代に長崎でニット(メリヤス)が製造されていたことについて、西川如見著の「長崎夜話草」(享保4年=1719年刊)に、女利安、紅毛詩なる故文字なし。足袋、手覆、綿糸にてすきたるものあり。 根本、紅毛人、長崎女人に教えたり。色も望みの次第なり。と書かれている。当時はメリヤスに女利安とか、女里弥寿という文字をあてていたようである。このほか、平賀源内(1728〜79年)は長崎に興味をもって二度訪問し、その後、羊を飼って紡績糸を製造したが、これは手編み用の糸として役立ったという逸話も残っている。この後、宝暦年間(1751〜64年)になると、江戸の劇場で「めりやす」と呼ばれる芝居唄が流行り出す。その語源にはいろんな説があるが、この芝居唄の「めりやす」にちなんだ「女里弥寿豊年蔵」(宝暦7年=1757年刊)などの絵草紙も発行されている。
  女里弥寿から莫大小へ
   文化、文政の頃(1804〜30年)には、ニットもかなり普及し、手編は江戸の浪人や小禄の武士の間で内職として広く行われるようになった。編み棒に細い鉄の棒を用い、靴下のほか刀の柄袋や鍔袋、印篭下げ、また弓矢を射る時のたびゆごて(旅弓籠手)、鉄砲を扱うときの防災手袋などへと応用範囲が広がっていったという。これについて「喜笑遊覧」という本は、武士の手覆や刀の柄袋を「そのさまいと見苦しけれど、これも流行風となれば、さまで思はず」と記している。そしてメリヤスを莫大小と書くようになったのも、この頃からである。石川公勤という人が文政9年(1826年)に書いた「緩草小言」に、めりやすというものは、のびちぢみありて、人の腕の大小あれど、いずれへもよくあうものなり。さらば大小と莫(な)く合うという義にてあるべきや。とあり、天保11年(1840年)に山崎義成という人も「三養雑記」の中で同様のことを述べている。嘉永、安政年間(1848年〜60年)になると、外国の艦船、いわゆる「黒船」が次々と到来し始め、国防の必要性から西洋式の兵制が採られるるようになって、手袋、靴下などの需要が高まってきた。これらは主として武家 の内職という形で製造されたが、幕末における下級武士の生活難が手編みの内職をますます普及させたようで、南部、松前、常陸、竜ヶ崎などの諸藩や一橋、田安家なども盛んにニット製品を編んでいたそうである。当時は鉄製の3本の編み針で製品が編まれたと言われており、無精ヒゲの武士が大小の刀を後において編針を持っている絵も残っている。なお、一橋家の家臣折原照房がつくる製品は、手袋から靴下、襦袢、腿引き、胴衣にまで及び、実に精巧を極めたという。この頃の原料糸は、殆どが綿糸だったが、刀の柄袋、鍔袋、下緒、印形入れ、印篭紐、巾着などには絹糸も用いられていた。これらの製品は、江戸では糸屋、足袋屋などで販売されていたと伝えられている。安政6年(1859年)に神奈川港、万延元年(1860年)に横浜港が開かれてからは、外人の往来も多くなり、靴下の需要も増えて、絹の手編み靴下も作られるようになった。この絹靴下は12匁(45g)くらいだったようで、横浜にはこれを売る店もあったという。なお、万延元年、井伊大老が桜田門外で水戸浪士の襲撃を受けたとき、供の武士の中にメリヤスの柄袋を用いていた者があって、即座に抜刀できなかったという話もある。

(文献 繊維産業構造改善事業協会著 ニットアパレルT ニットの基礎知識から抜粋)


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